かたくりかたこりかたつむり

やっぱり誤字脱字は氷山の一角

ペルソナ3のもやもやその2

ペルソナ3もやもやを考察というかまとめてみるの続編というか、部分的に掘り下げです。主に2つ。FESのエンディング付近を見たもので、もやもやが再燃してきたようです。ネタバレ注意。

主人公に「自分はこれから死ぬんだ」と思わせるような流れは欲しかったと思います。作中では納得して死ぬ人が多かったせいかもしれません。

1つ目はこの部分についてです。作中では割と結構な人が誰かを助けるため、大義をなすため、理想に殉ずるために死んでいきます。荒垣先輩、チドリ、岳羽詠一郎、桐条武治、ジン(…は入るのだろうか。入れときましょう)、それから神木さんは絵本を残しています。あれ、あんまりいなかったかな。まあいいや。とにかくこの人達は死ぬに足る理由を納得しているか、死ぬことが分かっていてその上で行動を起こしたと私は思います。そういう意味では主人公もこの一連のくくりに入れて構わないでしょう。

しかしこの人達と主人公との決定的な違いは、死を覚悟して事を成したんだということが傍目によく分かるということです。対照的に、主人公は自分が操作して感情移入すべき対象であるにも関わらず、エンディング付近での決意や覚悟といったものが感じ取れないので、主人公の死にも納得しにくいのだと思います(理由はそれだけではありませんが)。

これは無個性型主人公の限界と言えるかもしれません。傍目に決意や覚悟が見て取れるようだと、それはもうプレーヤーの意識からは分離したいわゆる「主人公」となってしまいます。しかし映画のヒーローに感情移入することが可能なように、このタイプの主人公に感情移入することも可能です。無個性型主人公は心理描写に欠けるため、ドラマチックなストーリーであったり、主人公が重大な決断をする場合には、このタイプに分があると思います。

つまり、主人公の成すことと、無個性型主人公というキャラクターがうまく噛み合っていないのでは、というのが考えたことの1つ目です。

2つ目は橋野氏のインタビューから薄々感じ取れる考え方に対する疑念、あるいは嫌悪です。その考え方は要約すると「葬式にたくさんの人が来てくれたら人生万々歳」といったものです。少なくとも私はそう感じました。確かにそれは人生の総決算としてひとつのモノサシにはなると思います。でも、その場に本人はいないんですよ。特にペルソナ3の世界観では幽霊なんか論外なので、幽体離脱した本人が葬儀場を上から見てる、という構図もなしです。そんな不確かな可能性に全てを掛けて死ねるでしょうか。私は嫌です。派手じゃなくていいので幸せに死にたいです、死んだ後に褒めそやされるんではなく。

では誰かを助けるために死にに行く人間の心を満たしているものが何かと言ったら、正義感と使命感と、それから言い方は悪いですが「先に行く者の傲慢さ」というものがあるのではないでしょうか。それはある種の陶酔を含んだ傲慢さだと思います。それは絶対的に悪いものではありませんが、残される側からしてみたら何とも言えない気持ちになるでしょうね。

そういう訳で、そのような行動を「不当に賛美」されるともやもやが溜まってきて、こうやって文章を書くことになるという……(笑)結局好きだということかな。好きだから、気に入らない点が看過できないのです。愛情を裏返すと私の場合こうなります。