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katakurikatakori.hatenablog.com
自由意志
自由意志とは
実存主義、ひいてはDBHにおいて、自由意志は非常に重要な要素です。まず前提として、因果律というものがあります。因果律とは、あらゆる結果には原因が存在し、原因なしには何も起こらないという原理のこと。例えば割れた窓ガラスがあるとします。これは何か硬いもの、ボールやハンマーがぶつかったせいで割れたのです。このように、原因と結果には必ず関係があるというのが因果律です。
あらゆる出来事は因果律に従う。つまり、人間の脳も物質である以上、人間の行動や決定も因果律に従う。これが「決定論」です。これに対するのが「非決定論」で、人間の意思は外部の何物にも左右されず、自分自身で決められるという立場です。
そして、決定論と自由意志は両立すると考えるのが「両立論」、両立しないと考えるのが「非両立論」です。
非両立論のうち、決定論が正しいため自由意志は存在しないとするのが「固い決定論」、決定論は正しくないため自由意志は存在すると考えるのが「自由意志論」です。
ちなみにサルトルの実存主義は決定論を否定します。なぜなら神はいないからです。DBHは強烈なまでに実存と自由意志を擁護するので、「自由意志論」の立場と言えます(なのでrA9の存在は謎といえば謎)。
しかし、量子力学の登場によって、それまで支配的だったニュートン力学的な価値観が、ミクロの世界では通用しないことが分かってきました。とても微小なサイズの世界では、原子の動きは予測不可能でランダム、非決定的なのです。では、量子力学は自由を保証するのか? 必ずしもそうではありません。ランダムであるということは、コントロールができないということ。果たしてそれは自由と呼べるのでしょうか?
リベットの実験
リベットによる運動準備電位の実験は、どこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。通常、私達は「『何かをしよう』と思って始めて体が動く」と見なしています。
手を上げよう→手が上がる
しかし、この自然な感覚は錯覚で、実際には「意識する0.35秒前に、脳では運動の準備ができている」のです。
手を上げる準備(準備電位)→手を上げよう(意識)→手が上がる(運動)
つまり「意識が起こる→なんらかの動作をする」という図式は間違いで、「脳が活動を開始する→意識に意思が登ってくる→なんらかの動作をする」という順番なのです。
ところで、この実験は誤解されがちですが、リベットはむしろ自由意志を擁護しています。脳で準備ができてから(準備電位が確認されてから)ほんのわずかな間だけ、自分の意思で行動を止められることが確認されているのです。
それに、意識に登るのが準備電位より後とはいえ、それは人間が宇宙人に思考を操られている、という意味ではありません。とはいえ、動作を拒否する意志もまた、自由意志によるものなのか疑問符がつくものではあります(リベットはこの疑問を退けていますが)。結局のところ、この実験で自由意志がないとは言い切れないのです。
自由意志と道徳責任
道徳的に間違った行いをした人を私たちは非難します。実は、この自然な反応には、とても素朴な「自由意志はある」という前提が関係しています。つまり、人間には自由があり、行動をコントロールできると信じているからこそ、悪い選択を行った人間は責められます。AやBという選択もできたのに(他行為可能性)、Cという選択をした自分がいる。だから、その行為の責任は私が負う。そういう考え方です。法も、自由意志を前提に罰を規定している。心神喪失の場合に責任が問われないのはこのためです。
しかし、逆に言えば「誰かに責任を負わせる必要があるから、自由意志という概念を作り出した」と考えることもできます。
ところで、「人間に自由意志はない」という信念を聞かされた被験者は、モラルに反する行動を取りやすくなるという実験結果があります。自分の行動を主体的に決められないなら、責任もないし倫理的にふるまう必要もないと考えるのかもしれません。実験哲学においても、人々が同様に考えていることが分かります。真実がどうであれ、道徳に自由意志は欠かせないのです。
まとめ
非常に拙速な感じでざっくり大づかみにまとめてしまったので、あちこちに穴があるだろうなーと頭を抱えています。しかしディレクターがリサーチに2年かけたと言っていたのは伊達ではなく、下敷きになっている思想が芋づる式にどんどん出てくる。元ネタが分かると非常に楽しいです。DBHでは哲学の思想をかなり噛み砕いて取り入れていることが分かるかと思います(そのために逆に分かりづらい点もある)。
実存主義は一世を風靡したあと、1960年代には構造主義に取って代わられ、急速に勢いを失っていきます。DBHが実存主義的であることを強調すればするほど、むしろ実存主義を批判した構造主義的な要素が目立ってくると個人的には思うのですが、今回は力尽きてそのへんが入りませんでした。
個人的には「神(DBHの世界観)の心は1940~1960年代にある説」を提唱しているのですが、作品全体から感じるのはある種のノスタルジーです。今の時代、昔が輝いて見えるのは分からなくもない。もちろん、第二次世界大戦や奴隷制、公民権運動が、語るには古い出来事だとはまったく思いません。しかし今は2019年、DBHが発売されたのは2018年。過去の議論にとどまらず、そろそろ歴史的教訓から新たな時代に向けた価値観を見出すべきじゃないでしょうか? DBHには、戦争の悲惨さを語り継ぐ平和教育の趣があるように感じます。それも大事ですが、しかしそれだけでは戦争はなくならないように。
認識できない真理なんてどうでもいいのかも
しかし、なぜ今の時代に実存主義なのでしょうか? つまり、行きすぎた自己責任論がまかり通る現代において、選択と責任を強調しすぎることは、強者の手頃な武器になりかねないと私は思います。奴隷解放から時間が経った今でも、アメリカの白人と黒人の格差は解消されていません。それは黒人が自分をそのように作ったからでしょうか?(ただ、実存主義推し自体に多分あまり深い意味はなくて、単にディレクターが好きなだけなんだろうなーという気がしますが)
実存主義自体は(絶望を下敷きにした)希望のある力強い思想だと思います。だからこそ第二次世界大戦後に大はやりしたのでしょう。人間にあらかじめ決められた本質はないという思想は、支配者に都合のいい本質を押し付けられた人たちにとって、希望になりえます。
しかし。しかしですよ。ここで私がさんざん言ったことすべてが、実存主義的な観点からすると、めちゃくちゃどうでもいい。なぜなら、実存主義とは「今ここに生きている私にとっての真理」を追求する、主観的な思想だからです。普遍的な真理とか、人間は普段こう思ってるけど実はこうだった! なんていうのはどうでもいいのです。
自由意志は、人間の自然な感覚とは裏腹に割と不確かな存在です。しかし、人は普段、自由意志を信じずにはいられないし、モラル的にも必要不可欠。心理学的にも、自分の努力次第で状況を変えられると信じること(内的統制型の信念)は心の健康に重要な役目を果たしています。そういう意味で、自由意志を固く信じることは信仰に近いと私は思っています。真理は体と心に悪いのかもしれません。
私の好きな心理学の理論に「存在脅威管理理論」というものがあります。人間はその高い認知能力ゆえに、自分がいつか死んでしまうことを知っている。しかし、その恐怖を和らげるメカニズムが人間の心にあるとして、そのメカニズムがもたらす行動を説明する理論です(実は差別問題にもかなり関係してくるのですが、それはまた別の機会に書けたらいいですね)。
「太陽と死は直視できない」とはラ・ロシュフコーの言ですが、太陽を直視したら失明してしまうので、そもそも直視しようとするだけバカなのかもしれない。「自由意志はあるのだろうか」とか「私はいつか死ぬだろう」とか考えるのも、それと同じような気が少しします。いくら科学が進んでも、肌感覚では自分は自由だし、明日死んでしまうかも、と心配する必要もない。実態はどうあれともかく生きようぜ! 的な。
分かり合えなさに振り回せ、斧
過去、哲学からはさまざまな学問が派生してきました。私のホームグラウンドである心理学も古くは哲学の扱う分野であり、現在の形になったのは1879年にドイツのヴントが初の実験室を開設してから、というのが定説です。そういう経緯もあって、実存主義に影響を受けた、同時代の人間性心理学(マズローとか)も存在します。独自の実存分析を推し進めたフランクルの『夜と霧』は、実存主義的にも、抑圧された人たちの心理という面でも非常に読み応えがあっておすすめです。
が、私がそういった分野の心理学に興味が薄い、という時点で推して知るべし。私が惹かれるのは、社会学や脳神経科学、進化生物学に近い心理学なのです。したがって「人間」に対する見方もDBHの思想とは異なってきます。「差別」ひとつとっても、DBHは「人間性を取り戻せば解決できる」という立場を取りますが、私は「人間(ヒト)がまさに人間であるために差別が起こる」という立場です。DBHが「人間性」だと考えている共感はヒト固有のものでもなければ万能でもなく、むしろ共感によって引き起こされる悲劇も多い。つまり、旧来の「人間」は乗り超えなくてはならない。
私は「どうなっているか」というメカニズムに興味があり、哲学の扱う「どのように生きるべきか」にはさほど興味がない。あったとしても「適応的かどうか(一般的な社会生活を問題なく送れるかどうか)」が基準なので、絶望的なまでに話が合わないわけです。
※心理学に興味がある人全員が私のような考え方をするわけではないので注意。我ながらかなりひねくれていると思う。臨床分野の人に怒られそう。そして単に心理学という枠組みでないと食指が動かないだけの可能性も…
ついでに言うと私はテクノロジー大好き人間なので、DBHがテクノロジーこわい、まんじゅうこわいな感じにいちいち首をひねっていました。というか、紙の本だって立派なテクノロジーですよ。理解までのハードルがあまりにも多くて息切れしそうです。
DBHが扱うのは奴隷制や民族浄化ですが、メインの主張はそこではなく「人間性を回復せよ」だと思います。しかしDBHがシステムへの隷属を警告し、人間の自由を擁護するなら、私がいちプレイヤーとしてゲームシステムや作品の思想に従わないのもまた正しい。そもそもDBHをやっていて私の居場所がないなと思ったくらいなので、全力で反逆していく所存です。アンチこそ相手をよく知らなくてはいけませんから、まだまだ書きたいことがたくさんあり、オタクは楽しいのです。
哲学のての字も分からない人間が参考にした本
サルトル『実存主義とは何か』 2015年11月 (100分 de 名著)
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哲学がわかる 自由意志 (A VERY SHORT INTRODUCTION)
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