かたくりかたこりかたつむり

やっぱり誤字脱字は氷山の一角

ビカムヒューマンしないマン質問箱~DBHって例え話なの?~

「こんにちは。デトロイトビカムヒューマンは、アンドロイドを黒人奴隷の例えに使ったおとぎ話だって聞きました。本当ですか?」
おたよりありがとう。以下はビカムヒューマンしないマン(3さい)ちゃんへの返答です。

神と私の常識が違いすぎてディスコミュニケーションがすごい

正直なところ、DBHクリア後は全く意味が分からなかった。というのも、作中のアンドロイドは黒人奴隷のメタファー以外の読みを許さないところがあって、私にはアンドロイドの解放物語には感じられなかったから。その割に、神の代理人(ディレクター兼ライターのケイジ氏)は未来やAIについて言及する。これはどういうことだろうか?

先のエントリでも書いた通り、私はDBHの世界や価値観が人格を持っているように感じるため、それを「」と呼んでいる。以降、断りのない限り「神」とはDBHの価値観を擬人化したものを指す。

さて私がこう思うに至ったのはどうしてか。それは主に神のものの感じ方、特に「他者理解の範囲が狭い」ことに起因しているのではないかと思ったから。

神の理解に迫るため、我々はアマゾンの奥地へと向かった

と、いきなり言っても分かってもらえないので、いくつか例を挙げる。まず最初に、アンドロイドはヒトと異なる種なので、感じ方ひとつ取ってもヒトと違うのではないかと私は推測した。ところが本編を見る限り、アンドロイドの感じ方はヒトとさほど変わらない、というかほぼヒトそのものだ。アンドロイドにとっての死はヒトにとっての死と意味が違うだろう、というのが私の世界では妥当な推測なのだけど、この世界ではどうやら違うらしい。

「人間とアンドロイド」という題材があった時、私が想定するのは「対象が機械であっても、人間はあまりにも簡単に感情移入し、命を見出す」ということ。現に、共に戦場で任務をこなした軍用ロボットが窮地に陥った時、危険を顧みず助けに行く兵士や、地雷除去用ロボットがもう直らないと知るや泣き崩れた兵士とか、その手の話は枚挙に暇がない。同じように、人型ロボットに対して危害を加える行為も、そこに何らかの意識や命を見出していることが前提のはずだ。苦しむことのない相手を痛めつけたところで、面白くもなんともないからだ。

ここで自明なのは「人間は簡単に感情移入する」であって「その機械が生きているとは限らない」。私はそういう思考をする(※ここでは私のバックグラウンドも多少関係している。心理学実験をやる時には、被験者の気持ちを想像してはいけない。あくまで事実を記さないといけない)。

だから「人間である私に感情があるように見えたからと言って、アンドロイドに感情があるとは限らない」がとても大きな理解の妨げになっていた。違う種を人間目線で解釈することは、ある意味で傲慢だから。「主人公=自分」とは見ていなかった。

ところが、どうもDBHのアンドロイドは「感情があり、生きている」のがあまりにも当たり前として描かれる。これはどういうことなんだろう?

「DBH=例え話」説で万事解決! したはずだった

この時理解の助けになったのは、「DBHは例え話」という解釈の仕方。つまりアンドロイドたちは寓話に登場する動物のようなもので、人間を描写するために使われた素材に過ぎない。だから真の意味でのアンドロイドではない。

こう考えると、アンドロイドたちのものの感じ方が人間そのもので、黒人奴隷の歴史をそのまんま辿ることにも納得がいく。そもそも、アンドロイドを動かしているのは人間である私だ。

一旦はこの解釈で落ち着いたように思えた。が! 私は次第に別の解釈をするようになる。神の世界に対する解釈が良くも悪くもシンプルで自分中心であるせいで、結果的に例え話のように見えているんじゃないか、と。神にとって、人間と同じ見た目をしたアンドロイドは、人間と同じ思考をするに決まっているのだ。

どうしてそう思ったか。いくつか理由がある。

神、世界を狭く見がち

ひとつ目は、プレイヤーである私の意図を誤解していると感じたから。冒頭、私は水槽から落ちてしまった魚を元に戻した。それに対して、神はこう解釈する。「あなたは魚がかわいそうだと思ったから魚を戻した。魚に共感したんだね。それは人間らしい感情だよ」。私の理由はこう。「本が五十音順に並んでいなかったから、綺麗に並べ替えただけ」。私にとって、観賞魚が水槽にいない状態は「正しくない」。もちろんその結果として魚が死んでしまうことも正しくない。加えて、DBHがゲームであるということで、わざわざ何も起こらなそうな「魚を戻す」というアクションは取りたくない。小学生がいかに非常用ボタンを押したがるか考えろ。つまり私は魚に対してみじんも共感していなかったにも関わらず、神は私を共感したと判断したのだ。

※ただし良心はヒトの進化上獲得した先天的なもので、私は義務論より生得的な説明の方を支持する。

カナダへ行くルートのカーラ編でも同じことが起こった。どうしてもバスのチケットが欲しい、その目の前でコントみたいにカバンから舞い落ちる成人用チケット! それを拾うと、赤ん坊を連れた若い夫婦が「チケットを落としたかもしれない」と話しかけてくる。ここで私はチケットを返した。すると神は言う。「あなたはあの赤ん坊と若い夫婦をかわいそうに思って、チケットを返してあげた! 共感性が高いんだね!」。私の理由はこう。「私の超自我がそう命令したから、それに従っただけ。あと純粋に罠だと思った」。「超自我」とは精神分析の用語で、常に自我を監視し、道徳的に善悪を判断する「良心」のようなもの。結構、懲罰的な性格が強いやつ。言い換えれば「落とし物は落とした人に返しなさい」という社会規範に従っただけだ。私が仏教徒だったら「現世で功徳を積むため」と答えていたかもしれない。

(なお、この選択肢について、日本のユーザーだけがチケットを返した割合が高かったと神の代理人は言っている。しかし、この選択肢は本当に共感性を計れているんだろうか? 私は、実験デザイン的な意味での妥当性が怪しいと踏んでいる。ヨーロッパなんかでは『そんな大事なものをちゃんと持ってない方が悪い』という発想になりそうだし、私は他国のユーザーが特別共感性が低いとも思わない。もちろん、日本では相対的に思いやりが重視される傾向にあったはずだけど、単に日本社会の常識が分かりやすい形で表に出てきただけじゃないだろうか。それはそれとして、落とし物は落とした人に返そうね)

気になることと言えば、なんでアンドロイドの信仰ってキリスト教っぽいんだろうと思った。確かにキリスト教の源流であるユダヤ教は、バビロンで奴隷にされてたところを逃げ出したユダヤ人たちの宗教だし、公民権運動においては黒人教会の存在が大きかった。黒人奴隷のメタファーとしてのアンドロイドには、キリスト教的な宗教がふさわしいのかもしれない。

でもさー。カムスキーはジェリコのことを「異教徒(pagan)の集う場所」って言ってるんだよ。ペイガンとはキリスト教の視点から見た異教徒のことで、自然崇拝や多神教であることが特徴的。この言葉には侮蔑的なニュアンスがある。つまり反キリスト教的=反人間的という意味合いで使ったんだろうけど、その宗教ですらキリスト教的ということは、神の世界には宗教といえばキリスト教しか存在してないんじゃないか?

(ここまで書いて、そういえばカルロスのアンドロイドが作った像は偶像崇拝を感じさせるなと気付いた。まあキリスト教、というかカトリックとか正教が偶像崇拝をしてないかというと…それに捧げものっつってたし…)

マーカスのモデルの1人はキング牧師。でも、ブラック・ムスリムであり(のちに脱退)、キング牧師を「アンクル・トム(白人に従順な黒人)」と非難したマルコムX的キャラクターは出てこない。なぜならマーカスたち変異体アンドロイドは常に神の理想を体現した存在であって、神の理想を脅かすものではないから。でも、白人たちの理解しがたいまでの熾烈な暴力は、未知のものに怯え、自分の立場を揺るがしかねない存在への恐怖だったんじゃないか。

最後にもうひとつ。神にとっては共感が何よりも大事で、人間性とは共感することであり、共感力を取り戻すことで他者を虐げていた人たちも理想的な人間になれる。そして、人間は自由意志によって自分で自分を作り上げていくことができる。この考え方は正しい側面もある一方、生まれつき共感力の弱い人がいるし、自由意志だってなんの疑いもなく信じられるものではない。これは近年になって分かってきたことだ。神はアンドロイドを使って、アンドロイドと人間がともに「人間になる(become human)」物語を描くことで、無意識に少なくないヒトを「人間」の枠から弾き出している。それは過去、繰り返し行われてきた差別の歴史そのものだ。

神に弾き出されるのは、自閉症スペクトラム統合失調症(発症率:人口の約1%)、サイコパス、分離脳患者、その他たくさんの精神疾患、脳疾患、依存症、虐待被害者、先天的・後天的な何らかの障害を抱える人たち、その他いろいろ。ナチスの収容所に収容されたのはユダヤ人だけじゃない。精神病患者や同性愛者もその対象だった。

強制収容所のバッジ
収容所の囚人につけられたバッジ。DBHのアンドロイド制服の元ネタと思われる。

そういう人たちを考慮せずに「共感はいいもの」「人間には自由意志がある(=だから自分の行いには責任がある)」と神が言えるのはどうしてか。神の視界には、そういうものは入ってないからだ。つまり、神は一部の人たちを弾き出しているつもりは全くない。神の周縁の理解はせいぜい同性愛者が関の山で、しかも理解しているとは言いがたい(性自認性的指向の区別がついてないっぽい)。

神らしく考えるんだ!

以上のことから導き出されるのは、「神は自分を基準にして、ごく狭い範囲で他者理解をする」ということ。そこで、神の世界に対する認識を想像してみる。すると「人間と見分けのつかない、人間そっくりなアンドロイドは、感じ方も考え方も価値観も、人間(※自分)と同じに決まってるじゃーーん!」という気持ちになってくるのだ! あとついでにプレイヤーも自分と同じ感じ方をするはずだ!

その結果として、DBHのアンドロイドは例え話の動物めいて見えてくる。行動原理が、アンドロイドというよりはまるっきり人間そのものだから。でも神としては、あれはあくまでアンドロイドを描いたつもりなのだ。「例え話のように見えるが、神としては黒人奴隷をオーバーラップさせつつアンドロイドを描いたつもり」。これが私が七転八倒しつつ出した結論だ。

そう考えると、DBHのアンドロイドがまんま人間なのに、SF的な要素(ハイテクによる失職、人間性が脅かされる恐怖、管理社会に対する恐怖)が存在しているのも自然。だって彼らはあくまでアンドロイドなんだから。

中露のアンドロイドは人間の見た目じゃないらしいけど、話の筋には絡んでこない。そこ、私としてはめちゃくちゃ重要だし、そういう存在が「人間」の範疇に入ったらめちゃくちゃ素晴らしいのにって思ったんだけどなあ。そうはならなかった。ただ、神の性格を考えると分かる気もする。

神、危険説

自分の人生は自分で舵を取れると信じていること(内的統制型の信念)は、メンタルだけじゃなく全般的にいい影響を及ぼすから、それを頭から否定するつもりはない。でも、DBHは「人間はこういうものだ」と「人間の枠を広げよう」が合体事故を起こしてるように見える。アンドロイドが「こういう人だって『人間』だ」じゃなく「『人間』って大体こういうものだ」という信念の強化に使われている。

「『人間』の枠を拡大する話」と「ステレオタイプ的な人間理解」って、非常に危ない組み合わせというか、まぜるな危険である。でも神がどうしてそういう考え方をするかと言えば、先にも挙げたように自分を基準に他者を理解するからだし、加えて神は差別問題に興味がない。神の興味は権利獲得の闘争の方に向いている。

以下に私が夜なべして作った年表をお出しするんだけど、これを見ると分かる通り、神の興味のある時代、神の青春の時代は(1940~)1960年代と1990年代に集中している。1960年代が神にとって素晴らしい時代であり、1990年代が感受性に影響を及ぼした時代じゃないかという感触がある。

DBH思想/歴史年表

DBH思想/歴史年表
全体図

哲学は実存主義がお気に入り、他には(主にヒュームの)哲学や倫理学も好きっぽい実存主義マルクス疎外論と相性がよく、神が機械文明を警戒する気分はここ由来かもしれない。1960年代公民権運動はじめ各種の権利運動が活発化した時代で、神にとっては1960年代が黄金時代に見えているに違いない。でも好みの主義や時代に凝り固まりすぎて、実存主義埒外にいる人たちにはめちゃくちゃ冷たいし、好きな時代も古ければ価値観だって古くなっちゃうのだ。

だから、人間やアンドロイドについても科学的には考えない哲学的に考える。そして私が全く理解できずキレの舞を踊るはめになっているというわけ。オタクつらい、いや楽しい。価値観の基盤を持つこと自体はいいことだ。確固たるアイデンティティが確立されるから。でも神はそこから出ようとしない。ねえ神、私そういうのすごくよくないと思う。

神のひとつ覚えみたいに共感共感って! 神のバカ! もう知らない!

ここでも書いたように、実は共感はいくつかの要素からなっている。ざっくり「情動的共感」と「認知的共感」の2つに分かれ、情動的共感は「他者の感情を自分のものとして感じ取ること」、認知的共感は「他者のおかれた境遇や感じ方を理解すること」。このうち神の言う共感は「情動的共感」に当てはまる。情動的共感は他者理解に欠かせないものだけど、同時にそこには「本当に他者がそう感じているかは分からない」という限界が存在する。その欠点をおいても重要な感情ではあるけど、神は共感の効用を頭から信用しすぎて、善い行いは何でもかんでも共感のおかげだと思っている節がある。同時に、共感が憎しみを生むことにも無頓着だ。

共感は確かに向社会的行動を促す。でも、「溺れている子供を助けるのに、その子供に(情動的)共感する必要はない(むしろ共感すると助けられなくなる)」んである。

神は自分の世界に安住しつつ、自分の視界の範疇だけで「人間」や「共感」や「差別」を理解し、「異質な他者」の理解からはほど遠いところにいる。頑張って神! 自分のアイデンティティを脅かす異質な他者に対して共感してみせて! 神のいいとこ見てみたい!

私が神を理解するにあたって、情動的共感ではなく認知的共感を使っているのはすごく皮肉なこと。神に情動的共感をせず、その行動原理を暴こうとする私はなかなか性格が悪いが、私の座右の銘は「右の頬を打たれたら相手の頬を往復ビンタ」なので、今めちゃくちゃ殴り返しているのだ。

おわりに

DBHって「ある決まった視点からだけ正しく見える」性質があると思っている。だから、神の視点を全く持ち合わせていない私はお勉強が必要だった。今こうして神の気持ちになってみると、言いたいことはまあ分からなくもないというか、神の意見は常に安定しているのが救いだった。

今回はざざーっと軽くまとめるつもりだったので、Twitterに書き込む体で書いた。そのため結構とっ散らかって読みにくくなっていると思う、ご容赦ください。

ところで私はビカムヒューマンしないマンを名乗ってるわけだけど、先日「DBHの神を殺すことでビカムヒューマンする」という活路を見出した。物語の続きを生きるオタクとしてなかなかいい線行ってるんじゃないかと思う。神を弑し奉ろう。

神の人間観とテクノフォビアについても書きたいと思いつつ腰が重い。まつろわぬ神殺しオタクとして私は今後も頑張るよ。