かたくりかたこりかたつむり

やっぱり誤字脱字は氷山の一角

Björk orkestral song stories 和訳(途中)

祝・やっとBjörk orkestral開催。ということで、ビョークが少しずつ公開している曲コメントを、ちょこちょこ訳していこうと思います。

1

Stonemilker

『ストーンミルカー』はクロッフタ(※1)の隣の海辺(※2)で2021年に書いた。ハルパコンサートホールにとても近くて、今度そこで演奏する。
私にとってこの曲は周期的で、小フーガのように大きいもので、だから一緒にMVを作ったアンドリュー・ホアンに、カメラの周りをぐるぐる歩き回って、カメラを取り巻くパノラマの風景を含められるか尋ねてみた。
そこには、2人の間で、すべてを、あらゆるものを、包み込んでそして団結させる円の運動という感情の試みがある。

※訳注1…おそらくクロッフタ島(Grótta)のことかと思われる。首都レイキャビクの北西にあり、ハルパまで車で10分ほど。陸繋島のため、干潮時には島まで地続きになる。

※訳注2…原文では「on a beech(ブナの木の上で)」になってたんですが、多分「on a beach」のことだと思う。アイスランド、木ないし。

Aurora

『オーロラ』は1999年に買ったSibelius(※1)で書いた。それですっかり気に入って以来、今でも使っている。
ハープ奏者と32人の弦楽器奏者の両方が、ピッツィカートで、オリジナルのハープアレンジを演奏するのはワクワクする。
私が興奮を覚えた、魔法のような雪景色を強調していて。
中間部は、冬に泊まったボルガルフョルズル(※2)の小屋で書いた。山の影が谷全体に広がって、その形を賛美しようとしたのを思い出す。それからずっと、そのセクションを歌う時は、いつもボルガルフョルズルとあの瞬間に切望した謙虚さを思い出す。

※訳注1…楽譜作成ソフト
※訳注2…アイスランド西部のフィヨルド

2

I've seen it all

今月演奏するこの曲のアレンジの思い出を続けていたい。1、2年の間、頭の中で『アイヴ・シーン・イット・オール』のメロディーが渦巻いて、ストリングスパートのアレンジが後ろをついていったのを覚えている。
多分、有頂天でしらふでなかったロンドンの夜、素晴らしい反響のなかひとつの橋の下で力一杯歌っていたのを覚えている。白状させてもらうと、その時私はノンストップでラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』を聴いていた。
その雰囲気に深くインスピレーションを受けた。荘厳で偉大な謙虚さがとてつもない! 筋肉質な『ホモジェニック』を表現した後だと、計り知れない穏やかさの中で、巨大な動作を探し求めるのに落ち着いたのは喜ばしいことだった…少なくとも、そうしてみることが…

Sun in my mouth

『サン・イン・マイ・マウス』はガイ・シグスワースと即興をした日に書いた。私は、詩集と、友人の詩を並べていた。『ハーム・オブ・ウィル』と『マザー・ヒロイック』は同じ日に生まれた。この曲を聴くと、現時点の私とガイ・シグスワースのつながり、E. E. カミングスの言葉の崇高さが聞き取れる。
それだけでなく、私がとある映画スタジオから飛び出して、自分の音楽に光を取り戻したことも。それは独力で立つ力を与えられた瞬間だった。私の中のMeTooの時計が、18年後に鳴るよう巻き上げられた。

You've been flirting again

『ユーヴ・ビーン・フラーティング・アゲイン』のアレンジは、『イゾベル』と『ハイパーバラッド』でエウミール・デオダートと仕事をしたあと、図らずもできた。
これらの曲では、私は彼にストリングスのアレンジのメロディーを演奏して歌った。それから彼がオーケストラ用に編曲した…
けれど、『ユーヴ・ビーン・フラーティング・アゲイン』のストリングスアレンジがシンプルであるにしても、それは私自身の「弦楽器の声」を見つけ出す大きな一歩だった。
そういう意味では、『ホモジェニック』の『ヨーガ』、『ファイブ・イヤーズ』、『ソッド・オフ』のアレンジの始まりだった…
私がより「アイスランド的」と感じた…それとも、もっと「自分らしい」かな?

(2021/11/08追記)

3

Isobel

思い出すのは、レイキャビク(トリッグヴァガタ《※》の家の窓のそば)で『イゾベル』のメロディーを書いている間、情熱的なものを作ろうとしていただけではなく、奇妙で優雅なジョーク(?!)を含めないといけなかったこと。
私はショーンに、この怪物「イゾベル」が何者なのかを何時間もかけて説明しようとした。そしてそのユーモアは、今考えてみれば必要不可欠なもの――メディアのなかで伝説上の生き物と化してしまった私の、自分なりの対処法だった。ある種、魔術的リアリティを備えたペルソナの皮肉めいた曲を書くようなもので、おそらくその作者となることで、私はそれを自分のものにできた。被害者意識に陥らずに。
時間的には『イゾベル』はアルバムの8%だったので、どういうわけか私は、自分が将来どのくらいこのペルソナへと足を踏み入れるか明かしていたけれど、残りの92%は他のキャラクターになりたかった。その多くは隠されている。
でも、もしかするとあらゆる皮肉には一片の真実が含まれているのかもしれないし、確かに、直感的で直情的なアイスランドを離れ、計算的で冷たい都市へと向かう女の子の話は、そう間違ってもいなかったかも…?

※訳注…レイキャビクの通りの名前。美術館や図書館がある。

Hyperballad

『ハイパーバラッド』はしばらくの間、日記に書いておいた歌詞のアイディアだった。ネリーのスタジオに立って、その歌詞が新しいメロディーにしっくりきたのを覚えている。
最近、ユング派の「影(※)」についての本を読んだ。このアイディアにかなり合っているように思える。この曲を書いた時、私は間違いなくこれらの理論を意識していなかった。これは人間関係の中で影を切り離し、パートナーの手を借りずに一人で影に対処するか、あるいは受け入れるかということだと思う。あるいは歌詞中で提示されるように、無邪気な日課に利用するか…? これは境界線を作る試みなんだと思う。それゆえに心から戻ってきて寛大であれる…

※訳注…ユングの心理学における、「個人の意識によって生きられることのなかった、認めがたい自分」を意味する元型。シャドウ。

(2021/11/23追記)

4

Harm of will

『ハーム・オブ・ウィル』を即興で書いた後、何ヶ月もかけてストリングスのアレンジをした…それは私にとって、ストリングスのアレンジャーとして個人的に重要な時期だった。
最大限に壮大な、『ヨーガ』や『イゾベル』のコーラスのストリングスのメロディーのようなものではなく、メロディーを抑えた抽象的なアプローチを追求した。
私はこの曲を、高揚感の雲のような、エロティックなエネルギーが行ったり来たりする、そして何かしっかりしたものに委ねたり落ち着いたりしないようにしたかった…

Bachelorette

私にとっての『バチェラレット』は、3曲のうちのパート3。

  1. 『ヒューマン・ビヘイビア』は子供時代。
  2. 『イゾベル』は、自然を離れ、大都会に向かう女の子の物語。彼女は衝動に駆られ、都会の論理の中で誤解されてしまう。それは「本能」対「論理」。彼女は痛い目を見て、傷を癒やすために田舎に引っ込み、孤立する。けれど蛾を訓練して都市へ戻ってきて、道理をわきまえすぎる人々の眼前を飛び、彼らが目を覚ますまでずっと「Na Na Na Na(※)」と言う。
  3. 『バチェラレット』は、それから蛾を追いかけていって、再び都市へ戻ってくる。ただし、愛をもって冷たさに立ち向かう、傷つき賢明になった強さを備えて。だからロマンティックなアレンジにしたかった。できる限り叙事詩的で、最高に壮大な、けれど愛のあるドラマ。

※訳注…インタビューにて、『イゾベル』の「Na Na Na Na」のくだりは「No No No No」という意味だと本人が言っています。

Unison

『ユニゾン』ではこの不思議なウォーキングを表現したくてたまらなかった。あたかも高貴な森を歩いているかのように、そしてハーモニーと釣り合いの力が実際に道を進んでいる、数少ない時。
ベースラインでは、こういうゆっくりとしたトランス状態のウォーキングをやってみた。
当時、それは私が経験したばかりの、激しい苦闘への抵抗の感情だった。
長期にわたる対立の後の雪解けだとか、ある試み…
どうしても欲しいものがある時には、音楽の模型を作って、そこに入ってみるしかない。

(2021/12/13追記)

5

Pleasure is all mine

最後に出産してから14ヶ月後、自分にプレゼントをした。大西洋に浮かぶ熱帯雨林の島、ラ・ゴメラ島にあるスタジオへの旅を。『プレジャー・イズ・オール・マイン』を書いた。女性の寛大さについて。もしも無私と寛大さを100万まで調整するとしたら、それは何だろう? 女主人のギターソロみたい!
だからこの曲は、意味があるとすれば、女性(私も含む)の無私無欲の自我について。それからクワイアのアレンジを、ほとんど女性らしさの亡霊に取り憑かれたかのような、『嵐が丘』にいるかのように感じさせたかった。
そして思い出す。その島で延々最初のコーヒーを飲みながら、何回も海で泳ぎ授乳した後で、マイクの前に立って、口を開け、頭を少し後ろに傾けて、体の芯に一番近いところにつながる音を出そうと、体に空気を駆け巡らせる。
一番与えるのは誰?

Oceania

『オーシャニア』はオリンピックのために書いた…だから私のおかしなユーモアのセンスは、まるでスポーツのように、2台のピアノで競争するトムとジェリーへとまっすぐ向かった。
だから、フレーズ間の極端な競争は、最初はピアノの音、それからギリシャに焦点が合うと、空を飛んで甲高く鳴くニンフとセイレーンにすることにした。
ショーンに作詞をお願いした。私はスポーティーなタイプではないから、すべての国を取り囲んでひとつにする海からの視点で。
いまだに彼の文章を歌うと青々とした気持ちになる。「あなたたちの汗は塩からい、そのわけは私」…!!(海の視点からすべての人間へ語りかけている)、この長い帯状のフェルマータの音符は、私が地中海に行くことだった(2000年前、私はフェニキア人で、まあ少し無理があるけれど…)。

(2022/02/10追記)