かたくりかたこりかたつむり

やっぱり誤字脱字は氷山の一角

狙いもいいし良くできてるが、最後ちょっぴりションボリしたので結局のところ柴犬しか勝たん『バディミッション BOND』

おおざっぱなレビュー

  • 少年漫画をBL的に解釈する人たち、に多大に目配せをしつつ、あくまで王道すぎる王道の少年漫画をやっているADV。主要キャラクターの年齢的には青年誌ですが、ノリは完全にアツい少年誌です(ただし、手癖なのか時々乙女ゲーみたいなスチルが出てきます。分かる人にしか分かりませんが)。
  • タイトル通り、メインの4人の中からミッションごとにバディを組んで行動するのが基本。バディものは強い。
  • コマ割りやフキダシ、集中線、描き文字などを用いた漫画的な演出やUIデザインが独特で、2DのADVと相性がいいです。キャラデザは『ワンパンマン』など作画の村田雄介。選定が正しい。
  • ストーリー主導型のゲームかつ、その中でもキャラクターの比重がかなり高め。登場キャラクターたちはタイプの役割分担が明確で、漫画らしいデフォルメがされつつ、テンプレに陥らない性格づけです。
  • アドベンチャーパートは、スキップや既読機能なども含めてかなり快適
  • ゲーム性や難易度は低め。捜査パートなどは若干作業感があるとも言え、潜入時の移動やQTEもややクセがあってモッサリしているのが残念といえば残念。ただし、このゲームにおいてはさほど致命的ではないです。
  • ADVには明るくないため、他にこういった少年漫画テイストのゲームがあるのか分かりませんが、コンセプトとしてキャラが立っている点は非常によろしいです。

個人的ションボリポイント

つまり君はそういう正しい物語なんだな(そもそもタイトルでBONDって言ってるしね)

ノーマルエンドが個人的に良かったので、トゥルーエンドでちょっとションボリしてしまいました。エピソードのコンプリートまであと2本というところだったんですが、それもやめてしまうくらいには少しションボリしてます。少しだけね。

ノーマルエンドだとラスボスと理解し合う端緒を断ち切られて終わるのですが、トゥルーエンドでは理解の第一歩というところで終わります。また、ラスボスに協力していたとあるキャラクターのストーリーも描かれます。

私は「え? 人は理解し合わなきゃいけないんですか? 絆を結ばなきゃいけないんですか?」ってなってしまう方なので、好みは完全にノーマルエンド。とはいえ押し付けがましいとまでは言えず、和合を目指すことを基調としつつ、まだまだ道のりは長いというスタンスではあるのですが。その点では(個人的に)ギリギリ救いがあります。もしラスボスとすっかり和解してたら心が死んでた。

※前提として、信頼できる人間関係のネットワークはアイデンティティの形成をはじめ心身の健康にも多大な影響を及ぼすので、必要か必要でないかで言えば必要なのは間違いないです。そういう意味で、トゥルーエンドでラスボスがカマをかけたシーンでのルークの発言は、いかにも少年漫画的な発言でクサいけど理屈としては割と合ってます

ただ、そもそもそういう「正しい」スタンスのストーリーなので、私はこのゲームのエンディングが間違っているとは思いません。あまりにも正しい。単に、軽くnot for meだった、というだけの話ではあります。

一見希望がないフィクションの方が好み

今のところ、ヒトは遅かれ早かれ必ず死にます。つまり、死は不幸だという通念に基づいた場合、死は不可避の不幸です。そしてその時、「死んだ人が蘇るフィクション」よりも「死んだ人は蘇らないフィクション」の方が基本的に私は救われます。不幸をないことにするフィクションが辛い現実をかえって際立たせる一方で、辛い現実を肯定するフィクションの方が時に救いがあると思うんですよ。

もっとも、現実が苛烈すぎるのでフィクションの中でくらい理想を見たい、という気持ち自体は真っ当です。というか、人が何かを物語る時、そういう願望はデフォルトで入ってくるものなので。そのひとつがまさに、主人公ルークがこだわる「ヒーロー」なわけです。

だから私にとって重要なのは、「フィクションによる現実の辛さの肯定」よりも、「フィクションの中で肯定されている価値観の否定」だったのかもしれません。ヒーローに対する否定。ただまあ、それをこの作品に求めるのは間違っています。これはヒーローの物語で、ヒーローとはたとえ実在人物であっても虚構や物語なので。

英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ。――ベルトルト・ブレヒト

シナリオの都合なのか、いつの間にかバディになってる

これは過去に某ゲームでもっとアレな経験をして以来、苦手になっていると言えます。ストーリーの都合上、キャラがなんかよく分からんまま推奨タッグとして「お片付けされている」というのが私はとても苦手です。

メインキャラ4名のうち、ルークとアーロンはお互いに感情のデカさが同じくらいで、まさに「正統派少年漫画ヒーロー」と「その良き敵のち相棒」という感じです。それから「運命強度」がもうめちゃくちゃ強く水戸黄門の紋所とか、前世セーラー戦士だったとか、ふたりはプリキュアだったりとかそういうレベルなので、仕方ないじゃないですかそれは。「柴犬は可愛いか」という問いが愚問なのと同じです(※愚問です)。

……なのですが、一方のモクマとチェズレイの方はというと、チェズレイが1人で勝手に変顔しながら盛り上がっている感が強く、何故あなた方はいつの間にかバディに……? という疑問が拭えませんでした。運命強度に関しても「アイツ、第一印象サイアク~!」タイプではあるものの、ルーク&アーロン組に比べると「先祖代々からの江戸っ子」と「都民だけど親の代で上京してきた人」くらい違いますね。でも江戸っ子目線はよくないぞ。

キービジュアルからも分かる通り、メインのバディはあくまでルークとアーロンのようなので、ちょっと描写がおざなりに感じられて「え、人間、必ずタッグを組まなきゃいけないのか?」となってしまったのでした。

一応2人のエピソードも全部見ましたが、説明が腑に落ちない。そう、一応説明はしてくれているんです。言いたいことも分かりますが、それにもかかわらず何かピンとこない。

なので、私はこの不可解さを「芋けんぴ理論」を使って解釈してみることにしました

この理論の骨子は「通常(※読み手の想定)とは異なる基準が評価軸として採用されている世界においては、ストーリー上の価値観と読み手の想定に大きなズレが生じるため、しばしば読み手に理解の困難さを感じさせる。また、そもそも評価基準が読み手に分かりにくいことも多い。しかし、いったん評価基準が判明すると解釈が容易になる」というものです。何を当たり前のことを。

この理論の由来である芋けんぴは恋を呼ぶ』といえば、主人公の女子が通りすがりのかっこいい男子に「芋けんぴ 髪に付いてたよ」とカリッと取ってもらい、カァァ……という展開が有名(というかネットミーム)な漫画です。

主人公は芋けんぴをやや行き過ぎなほどこよなく愛していますが、ある日から近所のコンビニの芋けんぴが買い占められるようになってしまいます。そこで、犯人を見たというゴン太(髪に付いてたよ、の人)と一緒に犯人を探すべく張り込みを開始するも、髪に付いた芋けんぴを取ってくれたゴン太のことが段々気になってきて……。とまあ、「前提がぶっ飛びすぎ」「芋けんぴを取ってもらって恥じらうシチュエーションがそもそも理解不能」という作品です。実は、芋けんぴ以外は割とよくある系統の恋愛漫画なんですが。

ここで仮にモクマを「芋けんぴおじさん(バディを組む理由が私には理解不能だが、この世界では芋けんぴが恋を呼ぶレベルで当然のこと、の意)」と考えると、バディを組む流れも分かる……いや分からないか……? 要するにチェズレイが反応したのは理屈的に芋けんぴなので私には理解が難しいのですが、ストーリー的には芋けんぴ的な説明はしていると考えられます。ただし芋けんぴなので私は理解できない(2回目)。キャラクター重視のゲームだし、ここは納得の行く説明がほしかったところです。作中ではイモイモ言ってるのに。

個人的な話として、好みのヒトのメス(ナデシコ)とヒトのオス(チェズレイ)のどちらも芋けんぴパワーが効いているので、イヌのメス(シバコ)にも芋けんぴパワーが効いていたら、うっかり大暴れしてコントローラーをぶん投げるところでした。危ないところだった。いや、モクマおじさんが好きじゃないという訳ではないのですが、誰にでも聖域というものがあるのです。人の子よ、柴犬を讃えよ。

とはいえ、メインのバディ以外の組み合わせにもそれぞれエピソードが用意されているため、和洋中インドメキシコタイベトナムなどが揃ったビュッフェ並みにバリエーション豊かな沼という、実に手堅すぎる布陣と言えます。その沼のどれにも落ちなかったとしても、柴犬がいるので大丈夫です。

まとめ

柴犬しか勝たん