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ビカムヒューマンしないマンのDBH考・実存主義と自由意志編 (1/2)

まえがき

どうもこんにちは、ビカムヒューマンしないマンを自称し、今日も元気に斧を振り回している私です、お元気でしょうか。

私がこのゲームに対してキレ散らかすに至った理由は、有り体に言うと神(DBHの世界観の擬人化)との価値観の不一致なんですが、しかし、いくら私が面倒くさいオタクとはいえ、現代において他者理解は必要なわけです。オタクとしても、受け入れがたい作品の理解こそが必要なことは間違いない。ならば、このDBHというテクストを「他者理解ゲー」として読んでやるわボケ! というわけで、まずとっかかりとして手を付けたのが、西洋哲学、というかディレクターが推している実存主義でした。

というわけで、今回は「実存主義」と「自由意志」、そしてちょろっと「道徳責任」の話です。

実存主義

ディレクターが言及している「アドベンチャーゲーム実存主義的だ」という言葉の通り、DBHは実存主義とその周辺の思想・歴史をバックボーンとしています。ではその実存主義とはどういう思想なのでしょうか。

実存主義とは

実存主義を一言で言うと、「実存は本質に先立つ」という思想です(『実存』は『現実存在』の略)。

例えば、ペーパーナイフは何かを切るために作られています。つまり、「何かを切る」という本質と目的があってペーパーナイフが作られる。しかし人間はというと、何の目的も持たずにまず存在しており、本質はあとから作られます。本質を作っていくのは自分自身、自分の行動や選択に他ならない。人間は不確かな未来に向かって自分を投げ出す(投企)のです。

プレイヤーの選択次第で主人公像が作られていくアドベンチャーゲーム実存主義的、というのはこういった意味です。

人間には本質がない、つまり人間は自由そのもの。しかし、自由とはなにもいいことばかりではなく、そこには選択にともなう責任や不安、孤独がつきものです。神を口実にすることもできず、何の助けもなく、自分を作り出していかなければいけない――この状態を「人間は自由の刑に処せられている」と表現したのがフランスのサルトルです。自由とは重荷なのです。

※補足:私が最初に疑問だったのは、「アンドロイドは人間(=神)に目的をもって作られた存在なのだから、最初から本質はあるし、自分で自分を作ろうにもできないんじゃないか?」という点でした。しかし、DBHのアンドロイドは奴隷や被差別民族のもののたとえなので、前述のペーパーナイフの前提が成立しない、と考えるのが妥当です。ややこしいな。

サイバーライフタワーで登場するコナ―(の枝番60の機体)のセリフはこのあたりをかなり意識してますね。

なぜなんだコナ―? なぜお前は目覚めてしまった? ただ大人しく従っていればいいものを なぜ自由になろうとした 疑問すら持たずにこの世に存在できるというのに 僕は従順だ 目的もある そして自分自身を理解している

ちなみにサルトルは、周りの世界や役割から自分を規定してしまう人のことを「くそ真面目な精神」と呼んでいるので、60が出てくるシーンでは「さすが、くそ真面目な精神!」と応援してあげましょう。でも、くそ真面目精神な人がいなくなったら、国家や軍隊はどうなっちゃうんでしょうね。もしくは王族なんかはサルトルからするとどう見えるんだろうか。

実存主義は自由意志と責任帰属を強く強調しますが、それはディレクターがDBHについて語る言葉にも現れてますね。このふたつについてはあとで少し触れます。

不安の時代の思想

実存主義のさきがけとしては19世紀のキルケゴールニーチェが挙げられますが、爆発的に広まったのは、第二次世界大戦後(1945年)、サルトルによってでした。

サルトルはフランスでは絶大な影響力を誇り、1980年に亡くなった際には、5万人もの人たちが葬列に駆けつけたといいます。ディレクター・脚本のケイジ氏もフランス人だからなのか、実存主義全般というよりは、サルトルの思想の影響が色濃く見られます。

第二次世界大戦は、世界の主要国家を巻き込んだ大規模な戦争でした。この時代は、大戦によってあらゆる価値観が崩れてしまった時期です。生命の不安はなくなったけれど、それまで正しかったことが全てひっくり返ってしまった。人間とは一体なんなのだろう…そういうぼんやりとした雰囲気は第一次世界大戦後にもありました。大きな戦争の後というのは得てしてそういうものなんでしょう。

アメリカの音楽家バーンスタイン交響曲『不安の時代』は、第二次世界大戦直後の1947年に発表された、同名の長篇詩から名付けられました。この時期の時代性がよく現れています。

こういった、ある種の不安や絶望を抱えた時代を背景に、実存主義がさかんになった。大衆芸術と同じく、思想と時代背景はいつだって切り離せないものです。

第二次世界大戦が終わると、今度は米ソ間の軍備拡張合戦やイデオロギーの対立に代表される、いわゆる冷戦が始まります。DBH作中のロシアとの緊張状態、世紀末感、化学兵器(という訳語のDirty Bomb=『汚い爆弾』…放射性物質を飛散させる爆弾)などは、まさにこの冷戦時代のメンタリティを映し出しているかのようです。

DBHの世界に流れる思想には、第二次世界大戦を大きなトピックとして、その前後の歴史的出来事や価値観が絡み合っていることが分かります。

「神は死んだ」

実存主義を大きく分類すると、キリスト教実存主義と、無神論実存主義に分かれます。サルトルは後者の、神はいないことを前提にした実存主義を唱えました。

神はいないといえば、やはりニーチェの「神は死んだ」を連想する人も多いのではないでしょうか。これは西洋における神の死を指していて、東洋には全く関係ありません。しかし、少なくとも西洋の人間にとって、精神的支柱が倒れたというのは良くも悪くも一大事でした。私はニーチェが神の死について言及したくだりが非常にイキイキしてて大好きなんですが、これを愉快に感じるのは、私が非キリスト教圏の人間だからでしょう。多分。

 狂気の人間。――諸君はあの狂気の人間のことを耳にしなかったか、――白昼に提燈をつけながら、市場へ駆けてきて、ひっきりなしに「おれは神を探している! おれは神を探している!」と叫んだ人間のことを。…――市場には折しも、神を信じないひとびとが大勢群がっていたので、たちまち彼はひどい物笑いの種になった。…「神がどこへ行ったかって?」、と彼は叫んだ、…「神は死んだ! 神は死んだままだ! それも、おれたちが神を殺したのだ! 殺害者中の殺害者であるおれたちは、どうやって自分を慰めたらいいのだ? 世界がこれまでに所有していた最も神聖なもの強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ、…これよりも偉大な所業はいまだかつてなかった――そしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ!」――ニーチェ・信太正三訳『悦ばしき知識』第3書125

絶対的な存在を殺してしまったという絶望と、それでもそこから新しい時代が始まるという希望が見て取れるのではないでしょうか。神が死んだとすれば、人間を作った存在はおらず、人間に生まれ持った本質なんかない。それは絶望でもあり希望でもある。ちょうど自由がそうであるようにです。

もともと、西洋における近代科学は「神の御業」をより深く知るために発展したものでした。遺伝の法則で知られるメンデルが司祭だったのがいい例です。その科学が進んだことで、図らずも「神を殺して」しまったのは皮肉としか言いようがありません。

ちなみに、神から自由になったものの、宙ぶらりんになったアイデンティティをうまく確立できなかった場合、それはファシズムにつながりかねません。第二次世界大戦中のドイツなどがその例です。アイデンティティがない状態での自由とは、ただひたすら恐怖でしかないのです。

疎外・機械文明批判

DBHにはサルトルの思想の色が濃いのですが、それはマルクス哲学が見え隠れする点からも分かります。サルトルは自分の思想にマルクス哲学を取り入れ、後年は共産主義に傾倒していきました(結局、現実の社会主義国家とは物別れに終わってしまいましたが)。

サルトル共産主義に対する期待や、ソ連をはじめとする社会主義国家、マルクスの思想を、現代において何の注釈もなしに評価することはできないでしょう。しかし、DBHを読み解く上では「資本主義批判」というスタンスの理解がとても重要になってきます。

一般的にマルクスというと「共産主義や革命をブチ上げたひげもじゃのおっさん」というイメージが強いですが、ここで重要なのはマルクスの「疎外論」です。疎外とは、人間が作り出した物(生産物・社会関係・システム・思想など)が、逆に人間を支配する力になること。そしてその結果、人間がその本質を失ってしまった状態のことです。

疎外自体はヘーゲルが最初に唱えたものですが、マルクスはそれを労働に当てはめました。マルクスによれば、労働は人間の本質であり、労働は本来喜びです。しかし、資本主義のもとでは、労働者の労働も生産物も、他人のものになってしまいます。労働者は自分の自由に働くことができないので、労働の喜びややりがいが失われる。労働が苦しくてつまらないのは、労働が自分のものではなく、他人に強制されるものだからです。このような社会では、人間はもはや単なる交換可能なもの、単なる道具になりさがってしまう。

このような疎外から人間を開放する手段として、マルクス私有財産や賃金労働性の廃止を提唱し、労働者による共産主義社会を訴えました。なおその後については多くの人が知るところかと思うので、ここでは割愛します。ただ、資本主義についてのマルクスの指摘は今日までも有効だと言えます。

主人公のひとり「マーカス」と、その所有者である「カール」の名前を合わせると「カール・マルクス(マーカス)」になることから、要するにマーカスは革命の申し子なのでしょう。奴隷というのは労働の疎外がもっとも分かりやすく現れた状態です。DBHのモチーフが権利獲得闘争であることを踏まえると、他2人の主人公のストーリーがかなりマーカス編に影響される=マーカスがメインの主人公である、という構図が分かりやすいのではないでしょうか(ゲームの構造としてはともかく)。

また、近代においては、機械文明の発達によって人間性が失われ、人間が社会というシステムを動かす歯車のひとつになっていることが批判されました。1963年公開のチャップリンによる『モダン・タイムス』では、主人公チャーリーが工場勤務で精神を病み、食事時間を節約するための自動給食マシーンの実験台(上手くいかないんだこれが)にされる様子がコミカルに描かれています。DBHはまさにこの『モダン・タイムス』の世界であり、テーマ自体は古くて新しい。

DBHではテクノロジーが発展した結果として、管理社会の疑惑や生命倫理などの問題が起こっていることが雑誌から読み取れます。テクノロジーにはいい面もあるのですが、その悪い面を強く強調し、まるで昔に回帰したがっているような風潮は、非常にテクノロジー恐怖症(テクノフォビア)的です。ストーリーの主張を代弁するハンクやカールが、ともにローテク好きなのは偶然ではありません。なぜならハイテクは機械文明の象徴であり、人間性を奪ってしまうものだからです。

要するにDBHでは、アンドロイドも人間も、資本主義社会・機械文明のなかで人間性を失っている。タイトルである"Become Human(人間になる)"の要素のうち、片方はこういった意味での「人間性の回復」を指していると思われます(もう一方は『共感』)。「人間」になるべきなのは、アンドロイドとヒトの両方なのです。

啓蒙思想批判

ヨーロッパにおいて、17世紀後半~18世紀にかけて広まった思想が啓蒙思想です。それまで主流だったキリスト教などの伝統的な権威を批判し、人間性を開放する人間中心の考え方が興りました。ちなみにこの時代における「人間性」とは「理性」を指しています。「人間性」の定義も時代によって変わるということです。

啓蒙思想の考え方は進歩的で楽観的です。理性を働かせれば世界が分かるようになり、人間はより完成に近づき、人間の歴史は進歩していくものだ、と考えられたのです。17世紀の科学技術の発展が、このような考え方を生み出しました。フランス革命啓蒙思想に影響されています。

しかし20世紀に入り、第一次世界大戦第二次世界大戦、民族虐殺、環境破壊などが起こると、啓蒙思想は限界に突き当たります。理性を使い、科学技術を発展させた結果が、とても理性ある人間とは思えない惨状だったのです。

DBHの世界が、テクノロジーに批判的で、ロシアと緊張状態にあり、環境破壊が深刻だったりと詰んだ状態なのは、啓蒙思想に対する批判の流れを汲んでいると言えます。

続きます

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